理想の社長になる!歴史に学ぶ最も効果的なマネジメント①

理想の社長になる!歴史に学ぶ最も効果的なマネジメント①

今回の起業東京.comでは、
理想の社長になる!
『歴史に学ぶ最も効果的なマネジメント①』
をご紹介します。

起業するということは、
社長(オーナー、店主、院長etc…)になるということ。
尊敬できて、求心力のあるリーダーになりたいと感じるのは
あなただけではありません

理想のリーダーになれるのであれば、
仕事の苦労もかなり減るでしょうし、
起業の不安が一つ少なくなりそうです。

今回は、目指すべき”社長”のため、
戦国時代のマネジメントを参考に

わかりやすく方法をご紹介していきます。

戦国武将に学ぶマネジメント

戦国時代と聞くと、
あなたはどんなイメージを持つでしょうか?

鎧兜(よろいかぶと)を身に着けた武将や足軽、

 そして一列になって火を噴く火縄銃、

敵陣にむかって突進する騎馬軍団、


あるいは姫路城に見られるような


戦国の名城を思い浮かべる人もいるかもしれません。

 

確かに、戦国時代は戦(いくさ)が絶えない時代でした。

博物館にいっても戦国時代の展示は

鎧兜や弓に刀、槍や火縄銃が中心です。

ですから、多くの人が戦国時代といえば

「戦い」というイメージを持つのも
自然なことかもしれません。

しかし、考えてみると戦国時代といえども、
常に戦をしていたわけではありません。

むしろ、戦に備える期間のほうが、
実際に戦っている期間よりも
相対的に長くなるのが一般的です。

領国を守るためには軍備が必要
ですし、

軍備を備えるためには資金が必要です。

武力で脅して農民から

米を巻き上げることもできますが、
そんなことをすれば農民は
領国から逃げ出してしまいます。

結果として、
農民に不満を抱かせないような統治
をする必要がありました。

マネジメントについても同様です。

マネジメントは
「他人を通して目的を達成する」
仕事や技術を指します。

戦国武将は自らの配下をいかにして、マネジメントするか?
が自らの死活を決める重要な仕事でした。

実際、戦国時代であっても、
部下が主人(殿様)に不満を抱けば、
他の武将のところに転職することは少なくありません。
それどころか、
悪くすると部下が敵に密かに寝返って、
主人の寝首を掻いたり、
戦の最中に攻撃してくることすらあるわけです。


戦国武将がこのような部下の
離反や裏切りを避けるためには、
戦での武勇だけではなく、
平時の領国経営やマネジメントが非常に大切でした。
 

前置きが長くなりましたが、
今回は戦国時代を題材にとって
マネジメントについて考えてみたいと思います。

戦国時代の上司と部下は意外にフランク?

戦国時代の主従関係というと、
家来は主人のために命をかける!
というイメージでしょうか?


確かに、そのようなケースはいくつもあります。

例えば、後に天下を獲る徳川家康が
武田信玄に大敗した三方原の戦いでは、
800あまりの家来が家康の身代わりになって
討たれたという話もあります。

実際に、800人だったかは別として、
多くの家来が家康のために
命をかけたことは事実なのでしょう。

しかし、三方原の家康のようなケースが
スタンダードだったわけではないようです。

実際、主君が負けると見るや敵方に寝返る

武将や家来は山ほどいるわけですし、
主君との仲違いが原因で暇乞い(いとまごい:要は退職)して、
他国に移る武士だってたくさんいました。

要するに主君と家来といえども、

今日、私たちがイメージするような
絶対的な上下関係とは限らないわけです。

むしろ、殿様には何を言われても、
家来は絶対にそれに従うべきと言うような
価値観は身分が固定した
江戸時代以降のもののようです。

もちろん、何世代にもわたって
関係性が固定している家もなくはありませんが、
多くの場合、そういった「老舗大名」は
戦国の荒波に飲まれて
滅びていくことが多かったように見えます。

新興の大名や武将たちは、
家柄よりも実力を重んじるという意味
現代的な価値観を持っていることが多々ありました。

「武士は二君にまみえず」は実はウソ。転職が盛んな戦国

本多平八郎忠勝が、
「本多忠勝公御遺書」の中で
こんなことを語っています。

「禄(ろく)を以て招く時は、譜代の主君をすて、二君に仕る輩あり」

※禄・・・武士の給与です。

要は、主君を変えるものを
非難しているわけです。

ところが、本多忠勝らのような
徳川家の譜代家臣団的な感性は、
戦国時代にはむしろ「異端」と言えます。

大前提として、
戦国武士の雇用状況って不安定なんですよね。

実際、会社(自分が仕えている家)が倒産、
いや滅亡することは少なくありませんでした。

後に、築城の名手として名を馳せる藤堂高虎などは、
仕えるたびに主家(会社みたいなもんですね)が
滅びたことで人生を悲観して、
高野山でお坊さんになろうとした
ことがあるくらいです。

結果的に、藤堂高虎は高虎を高く評価していた
豊臣秀吉に呼び戻されて、
以後、秀吉に仕え、
後に徳川家康に仕えて生涯を全うします。

ちなみに、織田・豊臣・徳川と
渡り歩いた武将はそれなりの数存在します。

漫画「へうげもの」に描かれた古田織部、
初代・柳川藩藩主で建設が得意だった田中吉政、
小説「功名が辻」で大河ドラマにもなった
山内一豊などなど、挙げればたくさんいます。

彼らは少なくとも途中からは、
大名(まあ、社長)なので、
厳密には転職とは言えないかもしれません。

しかし、仕える先を変えることについては、
案外、柔軟に考えていたようです。

それ以外にも、後に、徳川家康に取り立てられ、
徳川幕府でも幕末まで要職を占めた井伊家も
もともとは今川義元傘下の国衆
(くにしゅう:資本関係はないけど、今川の実質子会社みたいなものです)でした。
しかし、今川義元が桶狭間で織田信長に破れ、
今川家が滅びると、
徳川家康に仕えることになります。

徳川に仕えた初代の井伊家当主が、
「井伊の赤鬼」と称された井伊直政です。

こうしてみてみると、
戦国時代は転職時代でもあったんだなあ
という気がします。

安月給を提示されて将軍に逆ギレ

以前、日本と外国の働き方の違いを書いた記事で、
海外では給与交渉が新卒レベルでも当たり前に行われている
という話を書いたことがあります。

こういう話をすると
「日本人は奥ゆかしいから、給与交渉は苦手なんだよね〜」
という感想を持たれる方が必ずいます。

しかし、歴史を振り返ると
それは必ずしも正しい見解とは言えません。

すくなくとも、戦国時代には
かなりシビアな交渉が行われている
ケースが結構あります。

もちろん、シビアな交渉になるかどうかは
雇用主(大名・地侍)と被雇用者(侍)との
関係性によるところは大きいのです。

一番典型的な事例は、
将軍に給与提示をされて、
武士が逆ギレしたパターンです。

将軍に就任した秀忠のもとを、
大田某という侍が訪ねてきた時の話です。

秀忠から「500石の知行を与える」旨の知行目録をもらったが、それを受け取ったとたん、投げ捨ててしまった

 「家訓で読む戦国」より引用

※知行目録:主君が家臣に与える土地とそこでとれる石高が記載された書類です。

もちろん、秀忠は激怒して刀に手をかける事態
になりましたが、側近がそれを押し留めました。

結局、このケースでは、
将軍・秀忠が困り果ててしまい、
父親の家康にお伺いを立てています。

それに対して、家康は秀忠に
「お前がそんな安い石高を示したのが悪い」
としています。

結果、秀忠の提示した石高の4倍にあたる2,000石を妥当だと判断しています。

だとすれば、提示を受けた太田が
激怒するのも理解できなくはありません(500石では安すぎますから)。

それにしても、一介の武士が
将軍に逆ギレするわけですから、
想定石高=自己評価とプライドは
命に変えても守りたいものだったのでしょう。

見る目がない上司への遺言

どのように部下を適性に評価するかは
現代のマネジャーにとっても
大きな課題ですよね。

実は、この問題、
戦国時代にも大名にとって大きな課題でした。

例えば、冒頭に紹介した築城の名手・藤堂高虎はこんな言葉を残しています。

「一、主人目の明ざるは必禍多かるべし。奉公よくする者を不見付、当座気に入りがほ成を悦び、禄をとらせ懇ふりするゆへに、能奉公人気をかへ、暇をとるもの也。(以下略)」

要約すると、
「主人に見る目がないとトラブルが多くなる。
よく働く部下を見つけず、
気に入ったものを優遇していると、
よく働く部下は辞めてしまう」
と言っているわけです。

これは、戦国大名の教訓と言うより、
現代の企業で起きていること
のようにすら感じられます。

実は、部下を見る目がなかったのは、
将軍・秀忠だけではありません。

実際に、家来の最後を看取りに来て、
説教をされてた大名も実在します。

播磨姫路城52万石を領した池田輝政は、
部下からこんな小言を言われています。

「公つねに物ごとにほり出しをこのませ給う御病あり、中にも士のほり出しを専らとし給うこと、よからぬ御病なり。士はその分限よりは一際よろしくあてがわせ給いてこそ、長く御家を去らず、忠節を存すべし」

つまり
「殿様はものごとを過小評価する癖がありますよ。
中でも能力のある侍を過小評価するのは良くない癖です。
能力のある侍はその能力に見合った良い待遇にすれば、
長く勤めてくれて、忠実でいてくれるはずです」
的なことをいっているわけです。

これに対して、池田輝政も涙して感謝し、
別れを惜しんだといいます。

このことについて、歴史学者の小和田哲夫氏は、
「戦国時代は、のちの江戸時代ほど
君臣の隔たりはなかったのである。

それだけに、上に立つ者も、
下の者を思いやる心があったものと思われる」
と述べています。

考えてみれば、当時は身分が固定したり、
幕藩体制が確立して他国への移動が困難になった
江戸時代にくらべれば転職はしやすい時代ですから、
部下は「嫌なら辞める」ことが可能でした。

だから、大名だからといって
偉そうにふんぞり返っているばかりでは、
優秀な部下は嫌気がさして
出ていってしまうわけです。

もちろん、部下を正当に評価できない大名も同じです。


選択肢は他にもあるわけですから、

理不尽に耐えしのぐ必要なんてありません。

だからこそ、部下を適切に評価し、

処遇する能力は大名にとって必須だったのです。

部下をどう評価するか?
有能な部下をどうやって引き上げるか?

という問題は、現代社会だけでなく、
遠く400年も昔の戦国時代に置いても
上司たちの悩みの種であったわけです。

②へ続く・・・

ここまでの
『理想の社長になる!歴史に学ぶ最も効果的なマネジメント①』
いかがでしたか?

現代のマネジメントに通づる点が多く、
驚きですよね!

後半へ続きます。
お楽しみに!

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